■前回のまとめ
・”fascia”や”膜”と呼ばれる器官は、人体において、ひと繋がりです。
・”膜”の特性は、感覚と運動の両面で表れます。すなわち、固有感覚のセンサーに富み、かつ収縮性に富んでいる。それゆえ、「感覚 ⇄ 運動」の輪において重要な役を演じます。
・”膜”がやり取りする感覚のうち、自覚できるのは氷山の一角。水面下の大部分は無自覚です。また、ほぼ”膜”のテンションだけで成り立つ、意識に依らない運動も多くみられます。
・つまり無自覚、無意識な層で、体内の”膜”は常に変化し、かつ変化に応じています。
■響く体の自律性
程よく張られた鼓のように、”膜”は本来、一点からの微かな入力も全体に響かせます。
入力に応じて、全体が響く。
調律が行き届いた楽器を思い浮かべてもらうといいでしょう。
そのような状態にある時、体は自律的に、必要な働きを担ってくれます。
自律的な働きとは、例えば、気温に合わせて汗をかく、動きに応じて脈や呼吸のリズムが変わる、食べたものを消化する、などなど。
これら生命の基礎、根本をなす現象のほとんどは、自覚されることなく、意識的に操作する必要もなく、体が自ずと担ってくれています。
こうして見るにつけ、どうやら体の自律性は、私たちが生命を全うする為に欠かせない性質のようです。
■響く体の恒常性
ただし、仮に体が自律的に働いても、その行き先が定まっていなければ、あまり意味を成しません。
例えば、技量とチームワークに長けた乗組員が揃っていても、そもそも船の目的地がなければ、漕ぎ進められませんよね。
そこで、体は常に揺らぎながらも「凡そ、この範囲にまとまっておこう」という行き先を保っています。
このような性質は、恒常性(homeostasis)と呼ばれます。
恒常性のおかげで、私たちは暑ければ汗をかき、傷つけば菌とせめぎ合いながら傷口をふさぎ、食物や異物を吸収(あるいは排泄)して糧とする。
日々そのように生きて行きます。
そして、いつかその営みを終えて、体のまとまりを解く。
これらは全て、恒常性の現れです。
体が自律的に、恒常性を発揮している状態。
それは、「(自我や意識でなく)体が体のことを、よく分かっている状態」とも言えます。
たとえ外から何を施しても、この働き無くして、体が成り立つことはないでしょう。
■恒常性という奇跡
ひょっとすると私たちは、たった今、自らの裡で起きている奇跡に目もくれず、遠くの誰かが起こす奇跡に期待しているのかもしれません。
そう思えてくる程、一人一人に備わる恒常性は、恵み深いものです。
例えば、母の胎内に宿ってから今に至るまで、私の細胞は一つとして、同じままではありません。
全ての細胞が毀れ、入れ替わったにもかかわらず、私は私として、まとまり続けている。
この現象も、恒常性の為せるわざです。
また、体内に病み衰えた細胞が溜まる頃には、熱を上げて余分な細胞を燃やし、食い尽くし、新たな細胞が生まれる余地をつくる。
そして細胞が入れ替わった暁には、速やかに熱が下がり、凡そいつもの範囲に収まる。
これも、恒常性の現れと言えましょう。
その営みの巧妙さには、目を見張ります。
とはいえ、どれほど巧妙な働きがあっても、それを生かさなければ宝の持ち腐れ。
先ほどの例で言えば、もし発熱を忌み嫌い、薬でさっさと下げてしまうなら、「奇跡」の出る幕はありません。
それは「体が体のことを、よく知って行く」チャンスを、自ら閉ざす振る舞いなのかもしれませんね。
さて、今回はここまで。
恒常性という営みを前にして、私たちはどのように振る舞うことができるのか。次回はその辺りに触れていきます。
お読みくださり、ありがとうございました。