月別アーカイブ: 2022年3月

「”膜”と響きの話」第3回

前回のまとめ

・体の”膜”は本来、一点からの微かな入力も全体に響かせます。

・発汗や消化、循環、呼吸など、生命の根本にあたる現象は、自覚されることなく、意識的に操作する必要もなく、体が自ずと担ってくれます(生体の自律性)。

・体は常に揺らぎながらも、凡そ「いつもの」範囲にまとまろうとします(生体の恒常性)。

・体が自律的に、恒常性を発揮する。その営みなくして、私たちは生まれることも、生きて行くことも、命を終うことも出来ません。

■波打つ海

恒常性という、生体の圧倒的な営みを前にして、私たちはどのように振る舞えばよいのでしょうか。
今回はその辺りに触れていきます。

恒常性ゆえに、体は常に揺らぎつつ、凡そ「いつもの」範囲にまとまろうとするのでした。
この揺らぎは、海が波打つ姿を思い描くと、わかりやすいです。

海の様子をつぶさに見れば、一つとして「同じ」波は無く、「いつもの」波もありません。
けれど少し視野を広げると、凡そ「いつもの」幅で、「いつもの」方向へ波打つ様子が見えてきます。

そのように波打っているおかげで、海中では様々な生き物が混ざり合い、時に「食う食われる」の循環も促される。
結果として、人に海の幸がもたらされます。
また、もしその幅と方向に習熟すれば、波に乗って目的地へ運んでもらうことも出来るでしょう。

一方で、海がバランスを取り直す時期が来れば、波は大きく揺らぎ、うねります。
どうしようもなく、必然的に起きることですが、人にとって厳しさ、辛さを伴います。

■揺らぐ体

ここで、常に揺らいでいる私たちの体を、波打つ海の姿になぞらえてみます。
体もつぶさに見れば、人生の初めから終いまで、ただの一度も「同じ」ではなく、常に揺らいでいます。
そして、その揺らぎは野放図ではなく、凡そ「いつもの」幅と方向を保っている。
結果として、例えば治癒力や免疫といった恩恵が、人にもたらされます。

しかし、一度バランスの取り直しが必要になれば、体は大きく揺らぎ、うねります。
その過程は時に厳しく、辛い症状を伴うかもしれません。

こうして観ると、体が私たちにもたらす恩恵と厳しさは、本来、別々の現象ではないようです。

体の揺らぎが、「いつもの」幅と方向で、凪いでいる時。
あるいは、体の揺らぎが「いつもの」幅と方向を取り直そうとして、うねっている時。
この凪とうねりの間に、線引きは出来そうにありません。
ただグラデーションが観えてくるだけのことです。

■人に許された振る舞い

さて、それでは。
揺らぎと恒常性という、生体の営みを前にして、私たちにどんな振る舞いが許されるのでしょうか。

次のようなことは、出来そうです。
揺らぎの幅と方向をよく観て、その背後にある法則性に習い、上手な乗り方を学んでいく。
もし、自然なリズムを自らの手で邪魔しているなら、それを止めてみる。
それでも波が大きくうねる時は、おとなしく遣り過ごす。

おそらく、どんな先端医療もせいぜい、これらの振る舞いを手伝うだけ。
それを超える技術は、未だ現れていないようです。

■揺らぎを観せてくれるのは…

年齢や身体能力を問わず、誰もが今この時、自らの体の揺らぎを体験しています。
生きているかぎり、それは間違いありません。

ただし、揺らぎをちゃんと経験し、よく観ているかと問われたら。
そして、その背後にある法則性に上手く乗れているかと聞かれたら。
何だか心許ないような気がします(はい、私もその一人です)。

そこで、ある文化の人々は、体の揺らぎを観る手立てを講じてきました。
その一つが、”膜(fascia)”に尋ねることです。

“膜”によって、体の内外が隔てられ、体内に幾つもの空間が生まれます。
その空間が広がったり、まとまったりする様子から、揺らぎの幅を観てとれます。
また、“膜”は収縮しやすい方向をもつので、その様子から、揺らぎの方向性も観てとれます。

このように”膜”に尋ねると、体の揺らぎの幅と方向性が観えてきます。
だとすれば、その背後にある法則性も、少しずつ汲み取れそうな気がしませんか。

さて、今回はここまで。
お読みくださり、ありがとうございました。

「”膜”と響きの話」第2回

前回のまとめ

・”fascia”や”膜”と呼ばれる器官は、人体において、ひと繋がりです。

・”膜”の特性は、感覚と運動の両面で表れます。すなわち、固有感覚のセンサーに富み、かつ収縮性に富んでいる。それゆえ、「感覚 ⇄ 運動」の輪において重要な役を演じます。

・”膜”がやり取りする感覚のうち、自覚できるのは氷山の一角。水面下の大部分は無自覚です。また、ほぼ”膜”のテンションだけで成り立つ、意識に依らない運動も多くみられます。

・つまり無自覚、無意識な層で、体内の”膜”は常に変化し、かつ変化に応じています。

■響く体の自律性

程よく張られた鼓のように、”膜”は本来、一点からの微かな入力も全体に響かせます。
入力に応じて、全体が響く。
調律が行き届いた楽器を思い浮かべてもらうといいでしょう。

そのような状態にある時、体は自律的に、必要な働きを担ってくれます。
自律的な働きとは、例えば、気温に合わせて汗をかく、動きに応じて脈や呼吸のリズムが変わる、食べたものを消化する、などなど。
これら生命の基礎、根本をなす現象のほとんどは、自覚されることなく、意識的に操作する必要もなく、体が自ずと担ってくれています。

こうして見るにつけ、どうやら体の自律性は、私たちが生命を全うする為に欠かせない性質のようです。

■響く体の恒常性

ただし、仮に体が自律的に働いても、その行き先が定まっていなければ、あまり意味を成しません。
例えば、技量とチームワークに長けた乗組員が揃っていても、そもそも船の目的地がなければ、漕ぎ進められませんよね。
そこで、体は常に揺らぎながらも「凡そ、この範囲にまとまっておこう」という行き先を保っています。

このような性質は、恒常性(homeostasis)と呼ばれます。

恒常性のおかげで、私たちは暑ければ汗をかき、傷つけば菌とせめぎ合いながら傷口をふさぎ、食物や異物を吸収(あるいは排泄)して糧とする。
日々そのように生きて行きます。
そして、いつかその営みを終えて、体のまとまりを解く。
これらは全て、恒常性の現れです。

体が自律的に、恒常性を発揮している状態。
それは、「(自我や意識でなく)体が体のことを、よく分かっている状態」とも言えます。
たとえ外から何を施しても、この働き無くして、体が成り立つことはないでしょう。

■恒常性という奇跡

ひょっとすると私たちは、たった今、自らの裡で起きている奇跡に目もくれず、遠くの誰かが起こす奇跡に期待しているのかもしれません。
そう思えてくる程、一人一人に備わる恒常性は、恵み深いものです。

例えば、母の胎内に宿ってから今に至るまで、私の細胞は一つとして、同じままではありません。
全ての細胞が毀れ、入れ替わったにもかかわらず、私は私として、まとまり続けている。
この現象も、恒常性の為せるわざです。

また、体内に病み衰えた細胞が溜まる頃には、熱を上げて余分な細胞を燃やし、食い尽くし、新たな細胞が生まれる余地をつくる。
そして細胞が入れ替わった暁には、速やかに熱が下がり、凡そいつもの範囲に収まる。
これも、恒常性の現れと言えましょう。
その営みの巧妙さには、目を見張ります。

とはいえ、どれほど巧妙な働きがあっても、それを生かさなければ宝の持ち腐れ。
先ほどの例で言えば、もし発熱を忌み嫌い、薬でさっさと下げてしまうなら、「奇跡」の出る幕はありません。
それは「体が体のことを、よく知って行く」チャンスを、自ら閉ざす振る舞いなのかもしれませんね。

さて、今回はここまで。
恒常性という営みを前にして、私たちはどのように振る舞うことができるのか。次回はその辺りに触れていきます。
お読みくださり、ありがとうございました。

「”膜”と響きの話」第1回

■全身を繋ぐ器官

人体に張り巡らされており、ある文化では”fascia”、”膜”と呼ばれる器官の話。

“膜”の例として、横隔”膜”がよく知られています。
このような”膜”は、人が理解しやすいように、便宜上分けて名前が付いている箇所もあります。
けれど実際には、途切れることなく体を覆い、また、体の深部を貫いています。
頭のてっぺんから、手の指先、足のつま先まで、ひと繋がりの器官です。

■”膜”の特性

ひと繋がりの”膜”。
その特性は何でしょうか。

一つは、自分の体が「どこで何をしているか」について感知する(固有感覚の)センサーに富んでいること。
もう一つは、収縮性、弾発性に富んでいること。
これらの特性ゆえ、人の生命活動に欠かせない「感覚 ⇄ 運動」の輪において、主役級の役を演じます。

「感覚 ⇄ 運動」の輪とは、耳慣れない表現かもしれませんね。
たとえば、水の入ったコップを取ろうとする場面を思い浮かべてみましょう。
一旦コップへ向けて手が伸び始めたら、コップの重さや大きさ、距離に応じて、体が自ずと変化し続けます。
この間、”膜”は”全身が「どこで、どんな形をとっているか」感知し続け、その情報をもとに、丁度よいテンションで体の形を変えていきます。
こうして見ると、人体が動いている時、感覚と運動はどちらが先とも言えず、輪がぐるぐると循環するように働いているようです。

■”膜”における自覚/無自覚、意識/無意識

そして実は、この”膜”がやり取りしている感覚のうち、私達が気付けているのは、ほんのわずか。氷山の一角みたいなもの。
むしろ無自覚な水面下で、体内を巡っている情報がほとんどで、それらは自律的に処理されています。
コップを取ろうとする時も、毎瞬、自分の形を自覚している訳ではありませんね。

また、この“膜”が表現する運動は、意識的な動きに限りません。
歩く、跳ぶ、息をするなど、バネやボールが弾むのに似て、意識せず成り立つ動きもあります。

“膜”によって自ずと成り立つ運動は、他にもあります。
私達は重力や気圧のもと生きているので、それらの圧に応じて”膜”は自由にテンションを変え、バランスを保っています。
ここで、もし”膜”が自由に変化できないと、何が起きるでしょうか。
「天気痛」なんて言葉を、耳にしたことがあるかもしれません。
天候・季節などに伴い外界の圧が変化した時、体の”膜”に張り過ぎ、または緩み過ぎがあると、痛みや眩みが生じることもあります。

運動面で言えば他にも、血液・リンパ液を「運」ぶとか、ある方向へ心が「動」くことにも、この”膜”が関わります。
このような無自覚、無意識の範囲まで、”膜”の働きを見て取れる。

こうして見てくると、感覚にせよ運動にせよ、私達の与り知らない水面下で、沢山のやり取りがなされているんですね。
そのやり取りの多くは気づかれないまま、まるで泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えしています。
今のところ、「へぇそうなんだ」くらいに留めておいてください。

第1回はここまで。お読みくださり、ありがとうございました。