為末大氏がブログに寄せた文章「怪我について」。
http://tamesue.jp/blog/archives/think/20190520
体の不具合・生活上の不都合に関わる当事者、支援者にとって、ヒントの宝庫だと思いました。
何がすごいかって、無い頭を振り絞ってみると、
1.具体例が豊かで、わかりやすいこと。
2.当事者の視点、支援者の視点、当事者と支援者の関係を俯瞰する第三者の視点、が確立されていること。
の二つです。
1.具体例のわかりやすさについて、
まず「…ドクターには診断はできてもどんな競技人生を送りたいのかの判断はできないことを理解した方がいい」のくだり。
これはドクターを否定しているのではなく、役割分担の話。
たとえば「来週五輪の予選会を控えて痛みがある場合と、高校一年生で痛みがある場合では、同じ診断がなされても競技者の対処の仕方は全く違う」。
前者は痛み止めを打ってでも何とかするだろうし、後者には安静とリハビリが適切だろう、と。
診断から自動的に対応が導かれるのではなく、何らかの意思と計画があってこそ、初めて適切な対応がある。
これは、本当に。
当事者・支援者ともに、適切な対応を選べず、悩み、後悔することがあるけれど、そんな時は得てして、「何に対して」適切なのか見定められていない場合が多いです。
具体例のわかりやすさについて、
次に「…怪我は一つのサインになり、なぜ局所的に負荷がかかったのかを考えることで自分の身体動作の理解には相当に役立った」のくだり。
「最初左膝に痛みが出るようになったとき、ビデオをみていると左膝が外に向いて右膝だけ前を向いていたのでそれが原因だと思い、両膝をまっすぐ向けるように矯正した。すると…」
に続く過程は、能動性をもって、もがいた当事者ならではの貴重な実例。
支援者が何かしら役に立てるとしたら、この過程を整理することと、当事者の再学習が進むように体へ働きかけること。
特に徒手的な治療に携わるのなら、過程を整理するための検査の精度、その後の再学習を促すためのアプローチの質が問われると思いました。
2.当事者、支援者、第三者の視点が確立されていることについて、
「競技者でカルト的な考えにハマるときは怪我やスランプなど精神的に追い込まれた時が多い」のくだり。
「健全な時には、答えを出さないで複雑なものを複雑なまま置いておけるが、怪我をしているときは精神的に弱っているので、すっきりと世の中を説明してくれるような答えをつい縋りたくなってしまう。」
この一文の中には、弱っている当事者、(時として無自覚に)当事者を支配してしまう支援者、当事者と支援者の均衡が損なわれたことに気づく第三者、が存在します。
このように三者の視点が保てていると、損なわれやすい当事者と支援者の均衡を、何とか保てるのではないかと思いました。
体の不具合や生活上の不都合に悩んでいる方、そのような当事者に関わる方、読んでみてはいかがでしょうか。