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≪甲野善紀先生 神戸招待講座≫2022夏 ご案内

こんにちは。
8/19(金)夜に開催予定の、甲野先生 神戸招待講座についてご案内いたします。

先生から「突然に思いつき、急なので難しいでしょうが…」と打診を頂きました。
いえいえ、大丈夫です。大丈夫ですとも!
ちょうど、皆様もお待ちかねの頃合いかと思います。
今回も、甲野先生の勘に乗らせて頂く形で、「自力と他力」の交差する場にしてまいりましょう。

前回と同じく、参加者からの相談、質問をもとに展開される講座です。
「甲野先生に聞いてみたいこと」さえあれば、老若男女、武術経験は問いません。
身体の事、人生の事、世間の事など、何でも構いません。

甲野先生による最新の技法・術理のご紹介はもちろん、
参加者との間に立ち上がる「ここだけの話」が魅力の、神戸招待講座。
ぜひお運びください。

≪ご案内≫
1.日時
2022年8月19日(金)
18:15~20:15 神戸招待講座
20:15~20:45 書籍へのサインなど
20:50     完全撤収

2.会場
神戸市立 東灘区文化センター 和室
(JR神戸線 住吉駅 徒歩5分)

3.参加費
5,000円
当日、会場にてお支払いください

4.定員
20名

5.お申込み、お問合せ
だるま堂 中西まで
氏名、電話番号を明記の上、お申込みください

(電話)080-8716-4578
(メール)info@daruma7korobi8oki.com

前回の神戸招待講座の様子

甲野善紀先生のプロフィール、活動状況

≪甲野善紀先生 神戸招待講座≫ ご報告

参加者からの問いを元に、「身体が落ち着きを取り戻す勘所」や「身体の居着いた所に動きを見出す方法」などが即興詩のように広がる、甲野先生ならではの時間でした。

また、身体教育研究所 野口裕之先生の「○○は母の記憶」(○○の所は参加者の特権で…)という言葉や、先人の知恵の数々が引用されたように、私達の身体は一代限りで此処に在るのではなく、縦糸の勁(つよ)さの中で存在していることに、思いを馳せる時間にもなりました。

ご参加の皆さまが、自分の置かれた状況や、身に起きている痛みを元に、それらが自分に知らせてくれることを、甲野先生に映し出して頂きながら見ている姿、印象深かったです。

既にまた次回を楽しみにする声が上がっているので、お忙しい甲野先生も神戸に足を運んでくださると思います。
甲野先生、ご参加の皆さま、お力添えくださった皆さま、今回は本当にありがとうございました。

甲野善紀先生 神戸招待講座「そうだ、甲野先生に聞いてみよう」

武術研究家 甲野善紀先生を神戸にお招きし、
この度は「何でも相談室」型講座を開きます。

参加者からの質問・相談に対して、先生から返ってくるのは
快刀乱麻のお答えか、術理の紹介か、はたまた長い沈黙か…
蓋を開けてみるまで、何が起きるか分かりません。

「甲野先生に聞いてみたいこと」さえあれば、老若男女、武術経験は問いません。
身体の事、人生の事、世間の事など、何を聞いても大丈夫です。

ひょっとしたら、先生の勘で相談者を決めて頂くかも。
ですので、いつでも渦中に飛び込めるよう、心の準備だけしておいてください。

甲野先生による最新の技・研究内容のご紹介はもちろん、
参加者との間に立ち上がる「ここだけの話」が魅力の、神戸招待講座。
ぜひお運びください。

1.日時
2022年5月30日(月)
18:15~20:15 神戸招待講座
20:15~20:45 書籍へのサインなど
20:50     完全撤収

2.会場
東灘区文化センター 和室
(JR神戸線 住吉駅 徒歩5分)

3.参加費
5,000円
当日、会場にてお支払いください

4.定員
20名

5.お申込み、お問合せ
だるま堂 中西まで
氏名、電話番号を明記の上、お申込みください

(電話)080-8716-4578
(メール)info@daruma7korobi8oki.com

甲野善紀先生のプロフィール、活動状況については↓
松聲館ホームページ http://www.shouseikan.com/

「”膜”と響きの話」第3回

前回のまとめ

・体の”膜”は本来、一点からの微かな入力も全体に響かせます。

・発汗や消化、循環、呼吸など、生命の根本にあたる現象は、自覚されることなく、意識的に操作する必要もなく、体が自ずと担ってくれます(生体の自律性)。

・体は常に揺らぎながらも、凡そ「いつもの」範囲にまとまろうとします(生体の恒常性)。

・体が自律的に、恒常性を発揮する。その営みなくして、私たちは生まれることも、生きて行くことも、命を終うことも出来ません。

■波打つ海

恒常性という、生体の圧倒的な営みを前にして、私たちはどのように振る舞えばよいのでしょうか。
今回はその辺りに触れていきます。

恒常性ゆえに、体は常に揺らぎつつ、凡そ「いつもの」範囲にまとまろうとするのでした。
この揺らぎは、海が波打つ姿を思い描くと、わかりやすいです。

海の様子をつぶさに見れば、一つとして「同じ」波は無く、「いつもの」波もありません。
けれど少し視野を広げると、凡そ「いつもの」幅で、「いつもの」方向へ波打つ様子が見えてきます。

そのように波打っているおかげで、海中では様々な生き物が混ざり合い、時に「食う食われる」の循環も促される。
結果として、人に海の幸がもたらされます。
また、もしその幅と方向に習熟すれば、波に乗って目的地へ運んでもらうことも出来るでしょう。

一方で、海がバランスを取り直す時期が来れば、波は大きく揺らぎ、うねります。
どうしようもなく、必然的に起きることですが、人にとって厳しさ、辛さを伴います。

■揺らぐ体

ここで、常に揺らいでいる私たちの体を、波打つ海の姿になぞらえてみます。
体もつぶさに見れば、人生の初めから終いまで、ただの一度も「同じ」ではなく、常に揺らいでいます。
そして、その揺らぎは野放図ではなく、凡そ「いつもの」幅と方向を保っている。
結果として、例えば治癒力や免疫といった恩恵が、人にもたらされます。

しかし、一度バランスの取り直しが必要になれば、体は大きく揺らぎ、うねります。
その過程は時に厳しく、辛い症状を伴うかもしれません。

こうして観ると、体が私たちにもたらす恩恵と厳しさは、本来、別々の現象ではないようです。

体の揺らぎが、「いつもの」幅と方向で、凪いでいる時。
あるいは、体の揺らぎが「いつもの」幅と方向を取り直そうとして、うねっている時。
この凪とうねりの間に、線引きは出来そうにありません。
ただグラデーションが観えてくるだけのことです。

■人に許された振る舞い

さて、それでは。
揺らぎと恒常性という、生体の営みを前にして、私たちにどんな振る舞いが許されるのでしょうか。

次のようなことは、出来そうです。
揺らぎの幅と方向をよく観て、その背後にある法則性に習い、上手な乗り方を学んでいく。
もし、自然なリズムを自らの手で邪魔しているなら、それを止めてみる。
それでも波が大きくうねる時は、おとなしく遣り過ごす。

おそらく、どんな先端医療もせいぜい、これらの振る舞いを手伝うだけ。
それを超える技術は、未だ現れていないようです。

■揺らぎを観せてくれるのは…

年齢や身体能力を問わず、誰もが今この時、自らの体の揺らぎを体験しています。
生きているかぎり、それは間違いありません。

ただし、揺らぎをちゃんと経験し、よく観ているかと問われたら。
そして、その背後にある法則性に上手く乗れているかと聞かれたら。
何だか心許ないような気がします(はい、私もその一人です)。

そこで、ある文化の人々は、体の揺らぎを観る手立てを講じてきました。
その一つが、”膜(fascia)”に尋ねることです。

“膜”によって、体の内外が隔てられ、体内に幾つもの空間が生まれます。
その空間が広がったり、まとまったりする様子から、揺らぎの幅を観てとれます。
また、“膜”は収縮しやすい方向をもつので、その様子から、揺らぎの方向性も観てとれます。

このように”膜”に尋ねると、体の揺らぎの幅と方向性が観えてきます。
だとすれば、その背後にある法則性も、少しずつ汲み取れそうな気がしませんか。

さて、今回はここまで。
お読みくださり、ありがとうございました。

「”膜”と響きの話」第2回

前回のまとめ

・”fascia”や”膜”と呼ばれる器官は、人体において、ひと繋がりです。

・”膜”の特性は、感覚と運動の両面で表れます。すなわち、固有感覚のセンサーに富み、かつ収縮性に富んでいる。それゆえ、「感覚 ⇄ 運動」の輪において重要な役を演じます。

・”膜”がやり取りする感覚のうち、自覚できるのは氷山の一角。水面下の大部分は無自覚です。また、ほぼ”膜”のテンションだけで成り立つ、意識に依らない運動も多くみられます。

・つまり無自覚、無意識な層で、体内の”膜”は常に変化し、かつ変化に応じています。

■響く体の自律性

程よく張られた鼓のように、”膜”は本来、一点からの微かな入力も全体に響かせます。
入力に応じて、全体が響く。
調律が行き届いた楽器を思い浮かべてもらうといいでしょう。

そのような状態にある時、体は自律的に、必要な働きを担ってくれます。
自律的な働きとは、例えば、気温に合わせて汗をかく、動きに応じて脈や呼吸のリズムが変わる、食べたものを消化する、などなど。
これら生命の基礎、根本をなす現象のほとんどは、自覚されることなく、意識的に操作する必要もなく、体が自ずと担ってくれています。

こうして見るにつけ、どうやら体の自律性は、私たちが生命を全うする為に欠かせない性質のようです。

■響く体の恒常性

ただし、仮に体が自律的に働いても、その行き先が定まっていなければ、あまり意味を成しません。
例えば、技量とチームワークに長けた乗組員が揃っていても、そもそも船の目的地がなければ、漕ぎ進められませんよね。
そこで、体は常に揺らぎながらも「凡そ、この範囲にまとまっておこう」という行き先を保っています。

このような性質は、恒常性(homeostasis)と呼ばれます。

恒常性のおかげで、私たちは暑ければ汗をかき、傷つけば菌とせめぎ合いながら傷口をふさぎ、食物や異物を吸収(あるいは排泄)して糧とする。
日々そのように生きて行きます。
そして、いつかその営みを終えて、体のまとまりを解く。
これらは全て、恒常性の現れです。

体が自律的に、恒常性を発揮している状態。
それは、「(自我や意識でなく)体が体のことを、よく分かっている状態」とも言えます。
たとえ外から何を施しても、この働き無くして、体が成り立つことはないでしょう。

■恒常性という奇跡

ひょっとすると私たちは、たった今、自らの裡で起きている奇跡に目もくれず、遠くの誰かが起こす奇跡に期待しているのかもしれません。
そう思えてくる程、一人一人に備わる恒常性は、恵み深いものです。

例えば、母の胎内に宿ってから今に至るまで、私の細胞は一つとして、同じままではありません。
全ての細胞が毀れ、入れ替わったにもかかわらず、私は私として、まとまり続けている。
この現象も、恒常性の為せるわざです。

また、体内に病み衰えた細胞が溜まる頃には、熱を上げて余分な細胞を燃やし、食い尽くし、新たな細胞が生まれる余地をつくる。
そして細胞が入れ替わった暁には、速やかに熱が下がり、凡そいつもの範囲に収まる。
これも、恒常性の現れと言えましょう。
その営みの巧妙さには、目を見張ります。

とはいえ、どれほど巧妙な働きがあっても、それを生かさなければ宝の持ち腐れ。
先ほどの例で言えば、もし発熱を忌み嫌い、薬でさっさと下げてしまうなら、「奇跡」の出る幕はありません。
それは「体が体のことを、よく知って行く」チャンスを、自ら閉ざす振る舞いなのかもしれませんね。

さて、今回はここまで。
恒常性という営みを前にして、私たちはどのように振る舞うことができるのか。次回はその辺りに触れていきます。
お読みくださり、ありがとうございました。

「”膜”と響きの話」第1回

■全身を繋ぐ器官

人体に張り巡らされており、ある文化では”fascia”、”膜”と呼ばれる器官の話。

“膜”の例として、横隔”膜”がよく知られています。
このような”膜”は、人が理解しやすいように、便宜上分けて名前が付いている箇所もあります。
けれど実際には、途切れることなく体を覆い、また、体の深部を貫いています。
頭のてっぺんから、手の指先、足のつま先まで、ひと繋がりの器官です。

■”膜”の特性

ひと繋がりの”膜”。
その特性は何でしょうか。

一つは、自分の体が「どこで何をしているか」について感知する(固有感覚の)センサーに富んでいること。
もう一つは、収縮性、弾発性に富んでいること。
これらの特性ゆえ、人の生命活動に欠かせない「感覚 ⇄ 運動」の輪において、主役級の役を演じます。

「感覚 ⇄ 運動」の輪とは、耳慣れない表現かもしれませんね。
たとえば、水の入ったコップを取ろうとする場面を思い浮かべてみましょう。
一旦コップへ向けて手が伸び始めたら、コップの重さや大きさ、距離に応じて、体が自ずと変化し続けます。
この間、”膜”は”全身が「どこで、どんな形をとっているか」感知し続け、その情報をもとに、丁度よいテンションで体の形を変えていきます。
こうして見ると、人体が動いている時、感覚と運動はどちらが先とも言えず、輪がぐるぐると循環するように働いているようです。

■”膜”における自覚/無自覚、意識/無意識

そして実は、この”膜”がやり取りしている感覚のうち、私達が気付けているのは、ほんのわずか。氷山の一角みたいなもの。
むしろ無自覚な水面下で、体内を巡っている情報がほとんどで、それらは自律的に処理されています。
コップを取ろうとする時も、毎瞬、自分の形を自覚している訳ではありませんね。

また、この“膜”が表現する運動は、意識的な動きに限りません。
歩く、跳ぶ、息をするなど、バネやボールが弾むのに似て、意識せず成り立つ動きもあります。

“膜”によって自ずと成り立つ運動は、他にもあります。
私達は重力や気圧のもと生きているので、それらの圧に応じて”膜”は自由にテンションを変え、バランスを保っています。
ここで、もし”膜”が自由に変化できないと、何が起きるでしょうか。
「天気痛」なんて言葉を、耳にしたことがあるかもしれません。
天候・季節などに伴い外界の圧が変化した時、体の”膜”に張り過ぎ、または緩み過ぎがあると、痛みや眩みが生じることもあります。

運動面で言えば他にも、血液・リンパ液を「運」ぶとか、ある方向へ心が「動」くことにも、この”膜”が関わります。
このような無自覚、無意識の範囲まで、”膜”の働きを見て取れる。

こうして見てくると、感覚にせよ運動にせよ、私達の与り知らない水面下で、沢山のやり取りがなされているんですね。
そのやり取りの多くは気づかれないまま、まるで泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えしています。
今のところ、「へぇそうなんだ」くらいに留めておいてください。

第1回はここまで。お読みくださり、ありがとうございました。

人生七転び八起き

人生七転び八起き、生きてりゃ病も怪我もある。
病も怪我も、よく噛んで飲み込めば、ちゃんと腹の足しになる。

これは信念や希望の類ではなく、人に触れてみた観察結果です。
朝顔の観察日記みたいなもの。

放っときゃ美しく咲くわけではなく、下手に触っても枯らしてしまう。
じゃあ、より明らかに観ること、そして観ている自分の癖を知ることから、始めてみてはどうでしょうか。

ほとんどの事が、水面下で起きては消え、起きては消える。それならやはり、水面下を観じていきたいものです。
これは、観察結果から導かれる希望の話。

梅っ子助産所 1月ご案内

梅っ子助産所での「抱っこひも講座」のお知らせです。
所長の塩田さんには、
私自身の妊娠からお世話になりました。
妊娠中の過ごし方、出産後の母乳のこと、育児のことなど、
色々な相談に、明るく楽しく、乗ってくださいます。
●梅っ子助産所HP
http://midwifemap.com/umekkojyosannsyo/mysite/about/
●Instagram
@umecco.jyosannjyo

だっことおんぶは、
少しの期間ですが、毎日のこと。
どんなものを使うか、
どのように使いこなすのか、
また、道具以前に、お母さんの体の調子に気付くチャンスでもあります。
母子ともに「ちょうど良い」だっことおんぶ、見つけてみませんか。

スリング・へこおび・おんぶひもの用意もありますので、
気になる方は試してみてくださいね。

【日時】2021年1月20日(木) 10:00~11:30

【内容】抱っことおんぶのお話、抱っこひもの使い方など

【参加費】3,000円

【場所】梅っ子助産所(阪急岡本駅から南東へ徒歩13分)

【定員】2~3組の母子(完全予約制)

【申し込み方法】
・梅っ子助産所TEL:078-771-1202
または
・梅っ子助産所HP内「お問い合わせフォーム」より
赤ちゃんの月齢と、使用中の抱っこひもをお伝えください。

梅っ子助産所10月・11月・12月 ご報告

なんかかしっくりこない、
子どものご機嫌がよくない、
どう使っていいのか分からない、
それぞれのお話を伺って、
一緒に練習しました。
これはどうかな?
こうやってみようかな?
すぐに慣れないのは、お母さんもお子さまも一緒かもしれません。

だっことおんぶが、
ゆっくりとお互いに経験を積み重ねるお時間にもなるといいなと思います。
梅っ子助産所の塩田さんが「いい感じやねえ~」と、
ニッコリ見守ってくださり、ホッとしますよ♪
ご参加くださった皆様、塩田さん、ありがとうございました!

縄文流 アート&ブッシュクラフト ワークショップ ご報告

神戸での一日目は、火起こし、焚き火とナイフの基本でした。 今では「百科事典」と訳される、”Encyclopedia”。 かつて西周は、”cyclo”を尊重し「百學連環」と訳しました。 関根先生からの学びも、まさしく「連環」していきます。

植生の観察、素材選び、発火具作り、火起こし技術、焚き火での調理法、道具を作る刃物の扱い、刃物の研ぎ・見立て… 一口に焚き火と言っても、数々の知と技と、節度が含まれます。そして、それらは環をなし連なっている。 自ら手足を動かすうち、その連環が見えてくる、あっという間の一日でした。

神戸での二日目。木のスプーンを作る 本当に使いやすい道具のデザインとは? 秋岡芳夫氏にデザインを学んだ当時、手が不器用だった関根先生。 ところが、あまりに楽しんで物を作る秋岡氏を見るうち、居ても立ってもいられず、

「僕にも作れますかね?」 と尋ねました。 すると、秋岡氏は答えます。 「○○○○○○いいじゃない」 この言葉がきっかけで、大学時代の夏休み、スプーンを削り始めたそうです。

今回ご参加の方から、 「お話をお聴きするのも、スプーンを作るのも、作ったものを使うのも、どれも格別に楽しくて、作ったスプーンを見るだけで、その気持ちがよみがえります。」 と感想を頂きました。 これも、自ら手を動かしたからこその、味わいですね。

天気、空間、人に恵まれ、かけがえのない二日間となりました。 また関根先生の元に集える日を、今から心待ちにしています。