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だるま園4月「春の野遊び」ご報告

4月7日(日)のだるま園。
焚き火をしました。

燃えやすいものを探す、薪を細かくする、火をつけてみる。
ただそれだけなのですが、大人も子どもも、ちゃんと気の向くことを見つけます。

主催する僕としては、「ただそれだけで、何もしない」ことに、少し自信がつきました。
何もしないけれど、こういう時、芋とコーヒーがおいしいのは大事です。

自主練習会のこと

3月30日(土)、神戸にて徒手検査の自主練習会。
週末夜にもかかわらず、4名参加くださいました。

可動性検査、筋力検査を丁寧に。
参加者の志向が「検査手順をこなす」から「相手の反応を知ろうとする」に変わると、がぜん面白くなってきます。

今回は、参加者の自覚症状をふまえて、上記検査を組み合わせ、どの部位のどの運動方向が身体への負荷になりやすいか、評価を進めました。
評価が進むと、対象者が「そういえば普段、ちょうどこの動き、こんな体調の変化が気になっていたんです」と、自ら話し始めたりするのも印象的です。

このような話が出てくる時、対象者がそこに良くなる可能性(と、セラピストへの信頼)を感じ始めているように思えます。
そして対象者が可能性を感じれば、リハビリテーションの目標設定すら、変わってくるかもしれないな。と思いました。

「その人を知る」という抽象性の高い事柄に、(単純化しすぎず)具体性をもたせていく。
どこまでいっても、「これでよし」とはならないでしょうから、昨日より良くなるようにしていきたいですね。

5月25日(土)26日(日)のマニュアルメディスン講習会までに、あと数回、自主練習会を設けます。
練習会は募集をオープンにしませんので、関心のある方(医療従事者)は、個別で中西宛てにお問い合わせください。

マニュアルメディスン講習会 ご報告

山形から高橋透先生をお迎えしてのマニュアルメディスン講習会、第1回を終えました。
二日間にわたり、のべ13名が参加。

鍼灸師・柔道整復師・理学療法士と、職種に違いはあれど、価値観を共有できる方ばかりだったのが、とてもありがたく。
幸先のよい出だしとなりました。

今回の講習会における価値観をキーワードで表すなら、
・恒常性
・体内の情報伝達
・テンセグリティ

「対象者の治癒や運動学習を援けるときに、対象者の心身はどのような状態であるのが好ましいか。」
言い換えれば、「恒常性が安定し、回復や学習にエネルギーを回せるだけの構造・情報伝達になっているか。」

そのような問いかけに真摯に答えようとすれば、おのずと目指す方向は共有できるように思います。

また、一見抽象度の高い問いかけに、具体的で明確な基準をもって答えようとするなら、
「当たり前の」検査(可動性、筋力、アライメント)の精度を上げる必要があります。
その精度を、前半、高橋透先生が示してくださいました。

後半では、検査結果の優先順位のつけ方や、アジャストテクニック、筋エネルギーテクニックなどの手技の一端も注ぎ込んでいただきました。

 

触れ方、診立て方は練習次第。
熱い参加者に恵まれたので、次に先生をお招きする2か月後までに、4~5回は自主練習会を設けることにします。

次回、2019年5月25日(土)・26日(日)に講習会を予定しています(詳細の告知は、またあらためて)。
参加を検討している方は、自主練習会から参加していただいて構いません。
自主練習会については、私宛てにご連絡くだされば、個別にご案内いたします。

高橋透先生、ご参加の皆さま、本当にありがとうございました。
これから長いお付き合いになりますが、どうぞよろしくお願いします!

池上正さんファミリー野外教室のこと

池上正さんのファミリー野外教室に、家族で参加しました。
池上さんは、『サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の魔法』 (小学館,2008)、『叱らず、問いかける 子どもをぐんぐん伸ばす対話力』 (廣済堂出版,2013)などの著書もある、サッカー指導者です。

真冬を除いて月に一度、大阪府千早赤阪村で開催されている、この教室。
池上さん自身が、「この場所のいちばんの良さは、遊び道具が何もないところです」と仰るとおり、あるのは小山と広場と炊事場くらい。

薪割りや火つけ、炊事など、最低限の段取りだけがあり、決められた役割分担もありません。
子ども達は、勝手に自分の好きなことを見つけて、没頭します。

木を切る、火をつける、食事を作る、小山を駆け下りる、落とし穴を作る、自分の背丈の何倍もある竹を運んでくる…。
そんな時間を過ごしているうち、子どもの(大人も)体の密度が高まってくるように見えました。
ぱつんぱつんに、弾けそうな「いのち」を感じます。

「この木、どうしたらいい?」と子どもに聞かれ、池上さんの答えは「考えてごらん」。
窮屈そうに作業する子どもには、「自分が動きやすいように、周りに落ちている物を整えてみたら?」。
与えるだけの指導はただの一度もなく、問いかけだけが豊かな、一日でした。

何もなければ、工夫して遊び始める。
問いかけだけあれば、自ら学び始める。
「いのち」は必ず、守られている。

いやもう本当に。これ以上に大切なことって、あるんかな。
こんな場を、自分の住む街でも当たり前にしていきたいな。
と、あらためて思いました。

お薦めの一冊『駒井式 やさしい韓氏意拳入門』

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一冊の本を読んだ後、知見が増えたり、価値観が変わったり、新たな感情の引き出しができたり…。
そういう経験は多々あります。
けれど、一冊の本を読んだ後、練習したくてしたくて堪らなくなる。その日のうちに日課が変わる。
という経験は、なかなかできるものではありません。

そんな一冊が、『駒井式 やさしい韓氏意拳入門』(日貿出版社,2019)です。

僕の場合、とりあえず家にあった「自分なりに重い物」を抱えて歩くこと、なわ跳びを跳んでみることから始めました。
あとはロープ一本を使って、引いたり投げたり登ったり、遊んでいます(子どもも一緒にできそう)。P_20190302_080644

これらの方法は何も、本の中で紹介されていないのですけれど(もっとよい方法が紹介されています)、
練習において「足りない運動経験を補うこと」「自分の得たい感覚経験を検証すること」の大切さを、この本から学びました。

たとえば、次のような一文です。

”師にとっては「当たり前」、私にとっては「なんだそれ?」
この「当たり前」の不共有は物事の伝達において非常に大きな障害となります。”(p.249-p.250)

これは、学習プロセスの中で、相当に汎用性のある注意点かと思います。

師と弟子の間には、往々にして、時代背景、生活様式、実践(実戦)経験において差があります。
おおよそ、時代が下れば下るほど、生活の中での運動経験は減っています。
その差をふまえずに、師の言葉だけを聞いていては、師にとって「当たり前」であるがゆえに言語化しなかった前提を、学び損ねるおそれがある。
これは練習する上で忘れてはならない事実のはずですが、僕なんかは気付かないか、気付いても気付かないふりをしがち(気付くとしんどいので…)なところです。

そのような「気付いてしまった以上は、やるしかない」という状況の中で、さらに”駒井節”が身に沁みます。

たとえば、練習の辛さに音を上げそうになった時。
「私は運動が苦手」「私はもう歳だから」というような言葉が頭に浮かんできます。

それは果たして、体の声でしょうか?それとも頭の声でしょうか?
と、駒井先生は問います。そして、

”最近の練習の中で私が勝手にへこたれそうになった時、私自身の体は、
「私はまだまだできるよ」
「あなたと私の能力はそんなもんじゃないよ」
と言っているように思えてなりません。”(p.201)

…うーん、そのとおり!

そして、

”一回の講習で教われば身に付くようなコツもよいですが、骨身に沁み込む位のコツコツした”努力”の先にあるものこそを「真のコツ」と呼ぼうではありませんか。”(p.202)

…そうしようではありませんか!

と、このように熱くなること、間違いありません。

もしかすると、いま自分が試みていることは見当外れなのかもしれませんが、やってみようと思ったことを楽しく続けられるなら、少なくとも、死ぬ時の後悔は一つ減ります。

あくまで本書の主眼は、韓氏意拳の初級教程の教学内容が丁寧に紹介されているところにあるのでしょうけれど、
僕はまだまだ教学内容に詳しくないので、「自分ごと」に引き寄せて読ませていただきました。

僕のような初学者が感想を書くことも、ためらわれるのですが、何しろ「やさしい」韓氏意拳「入門」という書名に免じて、こんな前のめりな読み方もお許しください。

お薦めの本『身体は「わたし」を映す間鏡である』

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『身体は「わたし」を映す間鏡である なぜ人は「あたりまえに動ける」のか?』(甲野陽紀著,和器出版,2018)

何気なく手に取った一冊。…のはずが、この本を読んでから一か月間、毎日の生活のいろどりと味わいが、一変しました。

たとえばある日、自宅でパソコン作業をしていると、娘(6歳)が僕を遊びに誘いました。
いつものとおり、「ちょっと待ってー」と返事をしてから、ふと自分の居心地の悪さに気づきました。
何となく、納まりのつかない、ソワソワした感じ…。

そして、その居心地悪さは、僕の注意がパソコン作業の方へ向いたまま、一応、娘の方へ返事だけしたことに端を発していると、気づいたのです。
あるいは、娘の方へ注意が逸れたまま、パソコン作業を続けたせい、と言えるかもしれません。

試しに、もう一度娘の方へ向き、いま自分がしている用件と、何時頃一緒に遊べるかを伝えて、作業に戻りました。
結果として、先程のソワソワはなくなり、作業を捗らせた後、娘と楽しく遊べました(娘がどう思ったのかは知りませんが)。

またある時、遅めの夕飯を一人でとっていると、手は箸を動かし、口は食べものを咀嚼しながら、目は手元のスマホの画面を追っている…。
そんなことに、近頃、あまり居心地悪さを感じていなかったと、ふと気づきました。

試しに、スマホを別の部屋に置き、食べることに注意を向けてみると、料理の匂い、味わい、後味はもちろん、箸先に感じる食べものの重み軽みまで、新鮮に感じるのでした。
食べた後のお腹の納まりも、よい気がします。

毎日の何気ない「居心地悪さ」に気づき、あれこれ試した結果、「納まりのよさ」を感じる―。
この本の著者、甲野陽紀氏(身体技法研究者)が提案する、「一動作一注意」という観点のおかげで、日々の自分の「あたりまえ」が、とても新鮮に思えてきました。
おもしろいのは、道徳や気の持ちようではなく、身体を通じた(有無を言わさぬ)変化なので、頭での理解とはまた違う、独特の納得感があるところです。

この本について、もう少し詳しくお話しますと。
前半の章では、「注意の向け方」と「身体」の関係の深さについて、著者考案の実験がいくつか紹介されています。

たとえば、「立ち姿勢」や「歩き」といった、私たちが普段、あたりまえにしている身体の動き。
その安定性が、「どこに注意を向けるか」一つで、ガラリと違ってしまうのです。
(それも、動いている本人の実感とは関係なく。)

これらの章では、実験の手順もわかりやすく紹介されており、本を読んでいるというよりも、著者の講座を生身で受けているように展開していきます。
本人のがんばりや実感とは関係なく、動きが楽になるので、呆気なさに笑ってしまうかもしれません。
そこから、自分の興味や専門分野に引き寄せて考え始めてもよいでしょう。また家族や仲間どうし、ちょっとした遊び感覚で試しても、十分おもしろいと思います。

そして、これらの実験を通じて著者が伝えていることの一つが、「一動作一注意」という観点です。

たとえば、動物や子どもの動きには無駄が少なく、ヒトの健康や、身体で何かを表現する分野に関わる人々にとって、興味の尽きない対象です。
その、「動物や子どもはどうしてあんなに純粋な動きができるのか?」という問いに対して、著者は次のように答えています。

「動物は生きるために動く。そのテーマは決して崩れることはない。食べる、逃げる、あるいは襲う。すべての動きは生きるためです。そこはぶれない。
そのぶれなさを、動作と注意という観点でみたとき―(中略)ぶれない目的があるのでおのずと注意は一つに向かっている、とみえます。」(P.59)

「子どもも同じです。ただ遊びたいから遊ぶ、身体を動かす。なぜかというと、それが楽しいからです。周りから見たら子どもは興味のあることだけをしているともいえます。
興味のあることだから注意が散らない。興味のあることをしているときの子どもの注意は、つねに一つに向かっている―。」(P.60 )

そしてヒトの大人でも同様、動く目的(動物の場合の食べる、子どもの場合の遊ぶなどのように)を明確にし、「一動作一注意」が成り立つと、
結果として仕事や対人関係の場で混乱していたことに見通しがついて、うまく流れるようになることもあるのでは、と提案しています。

冒頭に卑近な例をご紹介したとおり、これは特別な人の特別な動きについての話ではなく、誰にとってもあたりまえの動きにヒントが内包されているので、すべての人にとって面白い観点だと思います。

後半の章では、タイトルに「間鏡」(魔境にちなんだ造語)とあるとおり、「間(ま)」についての実験・考察が展開されます。

たとえば、「自分が動く」「相手を動かす」の二択で状況が硬直してしまった時、「間(ま)を動かす」という三択目があると、状況が緩み、関わる人が納得できる可能性があるのでは、と提案されています。
このことも「一動作一注意」と同様、わかりやすい実験を用いて、身体を通じて知っていけるのが、他に類をみないおもしろさです。

いったん、世界に「間(ま)」を見出せるようになると、身の回りのあらゆるところに見えてくるといいます。

することが多過ぎて、頭の中が忙しい―。
硬直した状況に、イライラを感じる―。
便利な生活の一方、こんなことが発端で、身体の不調が生じる方が多いのも、現代の特徴かと思います。

そんな生活において、ヒトが生まれ持っている「あたりまえ」の動きの、すごさ、おもしろさ、ありがたさに気づくこと。
このことは、身体や状況と折り合っていくための、大切なきっかけになるのではないでしょうか。

カルテ整理の時間

おかげさまで、開業から4ヵ月。
お越しくださった患者さんの分だけ、カルテも増えてきたので、一旦すべての患者さんについて整理しました。
カルテを見ながら、「関わる目的、現状、今後の見通し」を(自分で自分に)喋ってみる、というものです。

この作業は、勤務か開業かに関わらず必要ですし、複数で働いている方が「検討会」は開きやすく、より客観性が担保されるのかもしれません。
けれど僕としては、開業し一人職場になってみて、この作業がずいぶん捗るようになりました。
こちらが一人だと、介在する条件が少ないぶん、トライアル&エラーを展開しやすいのかな、なんて想像しています。
あるいは、ただのわがままな気質によるものかもしれません。

トライアル&エラーを展開しやすくなったのは、マニュアル・メディスンの原理を学んでいる影響も大きいです。

筋骨格系、それに付随する血管、リンパ、神経という、多くの要素と相互の関係性を、それぞれ特殊な検査で捉えていくのは、とても大変です。
その点、マニュアル・メディスンでは、四肢長・アライメント評価、可動性検査、触診(組織の質感)、筋力検査などの、「ごく普通の」評価・検査が主です。
これだと、「頭の中が忙しくなりすぎず」、とてもありがたいのです。

さらに、それぞれの結果を相互補完的に解釈すると、一人の患者さんについて、結果・経過を計るための指標が見出しやすいです。
その指標と、患者さんの状態を、思い込みなく追っていくと、少なくとも見当外れのことはしなくて済みます(見当外れになっていれば気づけます)。
そんなわけでカルテには、必要なかぎりの検査結果と指標、自分のしたこと、を記載しています。

(謙遜でもなく)たいした事ができないので、このカルテ整理の時間は続けていきます。