骨董市で見つけた、小さな木型。汚れを落として磨き上げると、そこに現れたのは…。
読後、無性に何かを磨きたくなりました。
身近な道具の手入れが、関係性や自然の手入れにまで、繋がっていくのかもしれません。
※道具のラビリンス(迷宮)は、2014年~15年にかけて、和光大学の学生によって、ほぼ週刊で刊行されていた zine(個人発行の小雑誌) Camel magazine に連載されたものです。
紹介済みの回は、こちら↓
道具のラビリンス(迷宮) 書庫
骨董市で見つけた、小さな木型。汚れを落として磨き上げると、そこに現れたのは…。
読後、無性に何かを磨きたくなりました。
身近な道具の手入れが、関係性や自然の手入れにまで、繋がっていくのかもしれません。
※道具のラビリンス(迷宮)は、2014年~15年にかけて、和光大学の学生によって、ほぼ週刊で刊行されていた zine(個人発行の小雑誌) Camel magazine に連載されたものです。
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和光大学 関根秀樹先生による、道具のラビリンス(迷宮)。
第3回「アール・ヌーヴォーの印璽と紙刀」
雪舟や琳派、北斎が大好きだった関根少年。その異国の後裔、アール・ヌーヴォーに心躍らせたのも、必然で…。それぞれの道具の表情から、文化交流の担い手となった人間達の、息吹や衝動が伺えます。※道具のラビリンスは、2014年~15年にかけて、和光大学の学生によって、ほぼ週刊で刊行されていた zine(個人発行の小雑誌) Camel magazine に連載されたものです。
ご紹介済みの回は、こちら↓
道具のラビリンス(迷宮) 書庫
和光大学 関根秀樹先生による、道具のラビリンス(迷宮)。
第2回「使えないスプーン」
工業デザイナー 秋岡芳夫氏と出会った関根青年。文学科1年の夏、寮の一室で作ったのは…。そして、「使えないスプーン」とは一体…!?
瑞々しいディテールに満ちたお話です。
※道具のラビリンスは、2014年~15年にかけて、和光大学の学生によって、ほぼ週刊で刊行されていた zine(個人発行の小雑誌) Camel magazine に連載されたものです。
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道具のラビリンス(迷宮) 書庫
和光大学 関根秀樹先生のご厚意にて、道具のラビリンス(迷宮)を、定期的にご紹介できることになりました。第1回は、「トルコ式コーヒーミル」
道具のラビリンス(迷宮)は、2014年~15年にかけて、和光大学の学生によって、ほぼ週刊で刊行されていた zine(個人発行の小雑誌) Camel magazine に連載されたものです。
発火具、刃物、楽器、農具・猟具など、数多の道具を介して、ヒトは世界に触れ、自らの身体経験を得てきました。昨今、道具について無頓着でも生活は成り立ちますが、そのせいで何か失っている事はないでしょうか。道具の歴史と実践から、先人の暮らしや知恵を垣間見ることは、身の丈の自信を持つための一助となりそうです。
ご紹介済みの回は、こちら↓
道具のラビリンス(迷宮) 書庫
和光大学 関根秀樹先生による「道具のラビリンス(迷宮)」を、ご紹介します。
「道具のラビリンス」は、2014年~15年にかけて、和光大学の学生によって、ほぼ週刊で刊行されていた zine(個人発行の小雑誌) Camel magazine に連載されたものです。
発火具、刃物、楽器、農具・猟具など、数多の道具を介して、ヒトは世界に触れ、自らの身体経験を得てきました。昨今、道具について無頓着でも生活は成り立ちますが、そのせいで何か失っている事はないでしょうか。道具の歴史と実践から、先人の暮らしや知恵を垣間見ることは、身の丈の自信を持つための一助となりそうです。
≪道具のラビリンス(迷宮)書庫≫
第1回「トルコ式コーヒーミル」
第2回「使えないスプーン」
第4回「子ども靴の木型」
第6回「スチーム・パンクの卵」
第7回「ルーペと火取玉」
第11回「火をつくるデザイン 火打石」
第12回「附木と燐寸」
第13回「砂時計のある風景」
≪関根秀樹先生 ご紹介≫
2018年「原始の火を灯す」ワークショップ in岡山
2020年「火と音をつくる」ワークショップ in神戸
福島県生まれ。文系・理系・芸術系・身体系の多分野を気ままに往還するフリーの研究者&ライター。非常勤講師として和光大学では「火の人間史」と「音響人類学」、桑沢デザイン研究所では「手で考える道具と技術」、多摩美術大学では「絵具実習」を担当し、各地で多彩なワークショップを展開。『焚き火大全』『新版 民族楽器をつくる』『縄文人になる!』『刃物大全』『宮沢賢治キーワード図鑑』ほか数十冊の著書がある。「火起こし世界チャンピオン」「ぴよぴよヌンチャク奏者」などユニークな特技でも知られ、「タモリ倶楽部」や「スコラ坂本龍一音楽の学校」などにも出演している。和光大学空手部顧問。
「選択肢の多さに溺れない生き方」
『ありのままがあるところ』(福森伸著、晶文社、2019)より。
為末大氏がブログに寄せた文章「怪我について」。
http://tamesue.jp/blog/archives/think/20190520
体の不具合・生活上の不都合に関わる当事者、支援者にとって、ヒントの宝庫だと思いました。
何がすごいかって、無い頭を振り絞ってみると、
1.具体例が豊かで、わかりやすいこと。
2.当事者の視点、支援者の視点、当事者と支援者の関係を俯瞰する第三者の視点、が確立されていること。
の二つです。
1.具体例のわかりやすさについて、
まず「…ドクターには診断はできてもどんな競技人生を送りたいのかの判断はできないことを理解した方がいい」のくだり。
これはドクターを否定しているのではなく、役割分担の話。
たとえば「来週五輪の予選会を控えて痛みがある場合と、高校一年生で痛みがある場合では、同じ診断がなされても競技者の対処の仕方は全く違う」。
前者は痛み止めを打ってでも何とかするだろうし、後者には安静とリハビリが適切だろう、と。
診断から自動的に対応が導かれるのではなく、何らかの意思と計画があってこそ、初めて適切な対応がある。
これは、本当に。
当事者・支援者ともに、適切な対応を選べず、悩み、後悔することがあるけれど、そんな時は得てして、「何に対して」適切なのか見定められていない場合が多いです。
具体例のわかりやすさについて、
次に「…怪我は一つのサインになり、なぜ局所的に負荷がかかったのかを考えることで自分の身体動作の理解には相当に役立った」のくだり。
「最初左膝に痛みが出るようになったとき、ビデオをみていると左膝が外に向いて右膝だけ前を向いていたのでそれが原因だと思い、両膝をまっすぐ向けるように矯正した。すると…」
に続く過程は、能動性をもって、もがいた当事者ならではの貴重な実例。
支援者が何かしら役に立てるとしたら、この過程を整理することと、当事者の再学習が進むように体へ働きかけること。
特に徒手的な治療に携わるのなら、過程を整理するための検査の精度、その後の再学習を促すためのアプローチの質が問われると思いました。
2.当事者、支援者、第三者の視点が確立されていることについて、
「競技者でカルト的な考えにハマるときは怪我やスランプなど精神的に追い込まれた時が多い」のくだり。
「健全な時には、答えを出さないで複雑なものを複雑なまま置いておけるが、怪我をしているときは精神的に弱っているので、すっきりと世の中を説明してくれるような答えをつい縋りたくなってしまう。」
この一文の中には、弱っている当事者、(時として無自覚に)当事者を支配してしまう支援者、当事者と支援者の均衡が損なわれたことに気づく第三者、が存在します。
このように三者の視点が保てていると、損なわれやすい当事者と支援者の均衡を、何とか保てるのではないかと思いました。
体の不具合や生活上の不都合に悩んでいる方、そのような当事者に関わる方、読んでみてはいかがでしょうか。
『身体は「わたし」を映す間鏡である なぜ人は「あたりまえに動ける」のか?』(甲野陽紀著,和器出版,2018)
何気なく手に取った一冊。…のはずが、この本を読んでから一か月間、毎日の生活のいろどりと味わいが、一変しました。
たとえばある日、自宅でパソコン作業をしていると、娘(6歳)が僕を遊びに誘いました。
いつものとおり、「ちょっと待ってー」と返事をしてから、ふと自分の居心地の悪さに気づきました。
何となく、納まりのつかない、ソワソワした感じ…。
そして、その居心地悪さは、僕の注意がパソコン作業の方へ向いたまま、一応、娘の方へ返事だけしたことに端を発していると、気づいたのです。
あるいは、娘の方へ注意が逸れたまま、パソコン作業を続けたせい、と言えるかもしれません。
試しに、もう一度娘の方へ向き、いま自分がしている用件と、何時頃一緒に遊べるかを伝えて、作業に戻りました。
結果として、先程のソワソワはなくなり、作業を捗らせた後、娘と楽しく遊べました(娘がどう思ったのかは知りませんが)。
またある時、遅めの夕飯を一人でとっていると、手は箸を動かし、口は食べものを咀嚼しながら、目は手元のスマホの画面を追っている…。
そんなことに、近頃、あまり居心地悪さを感じていなかったと、ふと気づきました。
試しに、スマホを別の部屋に置き、食べることに注意を向けてみると、料理の匂い、味わい、後味はもちろん、箸先に感じる食べものの重み軽みまで、新鮮に感じるのでした。
食べた後のお腹の納まりも、よい気がします。
毎日の何気ない「居心地悪さ」に気づき、あれこれ試した結果、「納まりのよさ」を感じる―。
この本の著者、甲野陽紀氏(身体技法研究者)が提案する、「一動作一注意」という観点のおかげで、日々の自分の「あたりまえ」が、とても新鮮に思えてきました。
おもしろいのは、道徳や気の持ちようではなく、身体を通じた(有無を言わさぬ)変化なので、頭での理解とはまた違う、独特の納得感があるところです。
この本について、もう少し詳しくお話しますと。
前半の章では、「注意の向け方」と「身体」の関係の深さについて、著者考案の実験がいくつか紹介されています。
たとえば、「立ち姿勢」や「歩き」といった、私たちが普段、あたりまえにしている身体の動き。
その安定性が、「どこに注意を向けるか」一つで、ガラリと違ってしまうのです。
(それも、動いている本人の実感とは関係なく。)
これらの章では、実験の手順もわかりやすく紹介されており、本を読んでいるというよりも、著者の講座を生身で受けているように展開していきます。
本人のがんばりや実感とは関係なく、動きが楽になるので、呆気なさに笑ってしまうかもしれません。
そこから、自分の興味や専門分野に引き寄せて考え始めてもよいでしょう。また家族や仲間どうし、ちょっとした遊び感覚で試しても、十分おもしろいと思います。
そして、これらの実験を通じて著者が伝えていることの一つが、「一動作一注意」という観点です。
たとえば、動物や子どもの動きには無駄が少なく、ヒトの健康や、身体で何かを表現する分野に関わる人々にとって、興味の尽きない対象です。
その、「動物や子どもはどうしてあんなに純粋な動きができるのか?」という問いに対して、著者は次のように答えています。
「動物は生きるために動く。そのテーマは決して崩れることはない。食べる、逃げる、あるいは襲う。すべての動きは生きるためです。そこはぶれない。
そのぶれなさを、動作と注意という観点でみたとき―(中略)ぶれない目的があるのでおのずと注意は一つに向かっている、とみえます。」(P.59)
「子どもも同じです。ただ遊びたいから遊ぶ、身体を動かす。なぜかというと、それが楽しいからです。周りから見たら子どもは興味のあることだけをしているともいえます。
興味のあることだから注意が散らない。興味のあることをしているときの子どもの注意は、つねに一つに向かっている―。」(P.60 )
そしてヒトの大人でも同様、動く目的(動物の場合の食べる、子どもの場合の遊ぶなどのように)を明確にし、「一動作一注意」が成り立つと、
結果として仕事や対人関係の場で混乱していたことに見通しがついて、うまく流れるようになることもあるのでは、と提案しています。
冒頭に卑近な例をご紹介したとおり、これは特別な人の特別な動きについての話ではなく、誰にとってもあたりまえの動きにヒントが内包されているので、すべての人にとって面白い観点だと思います。
後半の章では、タイトルに「間鏡」(魔境にちなんだ造語)とあるとおり、「間(ま)」についての実験・考察が展開されます。
たとえば、「自分が動く」「相手を動かす」の二択で状況が硬直してしまった時、「間(ま)を動かす」という三択目があると、状況が緩み、関わる人が納得できる可能性があるのでは、と提案されています。
このことも「一動作一注意」と同様、わかりやすい実験を用いて、身体を通じて知っていけるのが、他に類をみないおもしろさです。
いったん、世界に「間(ま)」を見出せるようになると、身の回りのあらゆるところに見えてくるといいます。
することが多過ぎて、頭の中が忙しい―。
硬直した状況に、イライラを感じる―。
便利な生活の一方、こんなことが発端で、身体の不調が生じる方が多いのも、現代の特徴かと思います。
そんな生活において、ヒトが生まれ持っている「あたりまえ」の動きの、すごさ、おもしろさ、ありがたさに気づくこと。
このことは、身体や状況と折り合っていくための、大切なきっかけになるのではないでしょうか。
『焚き火大全』(創森社 編著)、『縄文生活図鑑』『新版 民族楽器を作る』(創和出版)、『刃物大全』(ワールドフォトプレス 共著)などの著者、関根秀樹先生。
大学での学生教育もされる中、「プロダクトデザイン科の学生でも、大学入学までナイフを使った経験がない」
「火をおこそうとすれば、太い薪をライターであぶり始める」などの現状を危惧し、
ワークショップなどの機会で、古来の技術や知恵を教えてくださっています。
著書を通じて知る関根先生は、とにかく古今東西の文化に精通し、実践的。
そして何度か先生をお招きしている、バランスからだ塾・安田さんから聞く関根先生像も、
知性と野生を兼ね備えた姿で、魅力的でした。
そんな憧れの先生が岡山に来られるとのことで、行ってきました「原始の火を灯す2018」。
今回は、
・薪割り
・ヒモギリ式火おこし
・竹で飯盒を作って炊飯
・竹を削って竹ナイフ作り
ちょっと先生から目を離している間に、竹で楽器やスプーンを作っていたり、
火打ち石で着火していたり、ヌンチャクを振っていたり…(笑)
普段、合気道を稽古している参加者には、合気道の技をかけてくださったり(先生には全然かからない)、
小指一本で吹っ飛ばしてくださったり…(笑)
関根先生の行く先々で、どんどんワークショップが始まり、驚きと笑いが沸き起こっていました。
どんな質問にも、文化的背景を教えてくださり、さらに実演までしてみせる。
まるで宝箱をひっくり返したような経験でした。
皆さんも経験あるかもしれませんが、地面に近いところで火や刃物を扱っていると、
だんだん気が鎮まり、時が遡っていくような思いがします。
そしてワークショップを終え家に帰り着く頃には、心地よい疲れがあり、夜8時には倒れるように寝床につき、こんこんと眠りました。
(ああいう深い眠りは、他でなかなか経験しません)
知恵の伝承、自分のルーツを知る、いざという時の備え、外遊びの楽しさ…
人それぞれきっかけは違うでしょうけれど、火や刃物は適切に、身近にあると、暮らしが豊かになると思います。
こんにちは。整体だるま堂の中西です。
本日、神戸は爽やかな秋晴れです。
さて、おかげさまで、今月から船出した「整体だるま堂」。
地域の「治癒、成長、学びの場」として、大切に育ててまいります。
僕たち家族にできることは本当にささやかですから、三つの事業を軸として、自分たちがよいと思うことを、地道にお伝えしていきます。
三つの軸とは、
・施術と武術(これは僕にとって分かちがたい「一つ」の軸)
・自然活動
・だっことおんぶ
です。
施術は、もちろん最も大切な柱です。この柱がしっかりする程、他の取り組みも豊かになると思っています。
自然活動は、「だるま園」にて。「園」と言っても、園舎はありません。月に一度、大人も子どもも一緒になって、自分たちのルーツである体や文化に、目を向けてみます。
そして、だっことおんぶ。こちらは主に、妻が担当します(近日中にご案内させて頂きます)。
近頃、小児科医や助産師、小学校の先生とお話する機会が多いのですが、こぞって懸念されているのが、子どもたちの姿勢、呼吸、運動経験の偏りについてです。
それらの偏りが、いつ・どこから始まっているのかは、個別性もあり、一概に言えない(言い過ぎると「呪い」にもなりうる)と思いますけれど。
だっこやおんぶが、赤ちゃんを「運ぶ」という目的にとどまらず、赤ちゃんの姿勢、呼吸、運動経験に豊かな恵みをもたらすことは、間違いないと思っています。
そのような、だっことおんぶの豊かさを知るのに、お薦めの一冊。
『世界のだっことおんぶの絵本』、メディカ出版、エメリー&ドゥルガー・バーナード文・絵、仁志田博司/園田正世監訳
文化の異なるさまざまな地域で、人々がどんなふうに赤ちゃんをだっこしているのか。
鮮やかな色合いの絵と、背景にある人々の暮らしを眺めるのも、楽しいです。ぜひ手に取ってみてください。
それでは、今日もよい一日を。