「”膜”と響きの話」第3回

前回のまとめ

・体の”膜”は本来、一点からの微かな入力も全体に響かせます。

・発汗や消化、循環、呼吸など、生命の根本にあたる現象は、自覚されることなく、意識的に操作する必要もなく、体が自ずと担ってくれます(生体の自律性)。

・体は常に揺らぎながらも、凡そ「いつもの」範囲にまとまろうとします(生体の恒常性)。

・体が自律的に、恒常性を発揮する。その営みなくして、私たちは生まれることも、生きて行くことも、命を終うことも出来ません。

■波打つ海

恒常性という、生体の圧倒的な営みを前にして、私たちはどのように振る舞えばよいのでしょうか。
今回はその辺りに触れていきます。

恒常性ゆえに、体は常に揺らぎつつ、凡そ「いつもの」範囲にまとまろうとするのでした。
この揺らぎは、海が波打つ姿を思い描くと、わかりやすいです。

海の様子をつぶさに見れば、一つとして「同じ」波は無く、「いつもの」波もありません。
けれど少し視野を広げると、凡そ「いつもの」幅で、「いつもの」方向へ波打つ様子が見えてきます。

そのように波打っているおかげで、海中では様々な生き物が混ざり合い、時に「食う食われる」の循環も促される。
結果として、人に海の幸がもたらされます。
また、もしその幅と方向に習熟すれば、波に乗って目的地へ運んでもらうことも出来るでしょう。

一方で、海がバランスを取り直す時期が来れば、波は大きく揺らぎ、うねります。
どうしようもなく、必然的に起きることですが、人にとって厳しさ、辛さを伴います。

■揺らぐ体

ここで、常に揺らいでいる私たちの体を、波打つ海の姿になぞらえてみます。
体もつぶさに見れば、人生の初めから終いまで、ただの一度も「同じ」ではなく、常に揺らいでいます。
そして、その揺らぎは野放図ではなく、凡そ「いつもの」幅と方向を保っている。
結果として、例えば治癒力や免疫といった恩恵が、人にもたらされます。

しかし、一度バランスの取り直しが必要になれば、体は大きく揺らぎ、うねります。
その過程は時に厳しく、辛い症状を伴うかもしれません。

こうして観ると、体が私たちにもたらす恩恵と厳しさは、本来、別々の現象ではないようです。

体の揺らぎが、「いつもの」幅と方向で、凪いでいる時。
あるいは、体の揺らぎが「いつもの」幅と方向を取り直そうとして、うねっている時。
この凪とうねりの間に、線引きは出来そうにありません。
ただグラデーションが観えてくるだけのことです。

■人に許された振る舞い

さて、それでは。
揺らぎと恒常性という、生体の営みを前にして、私たちにどんな振る舞いが許されるのでしょうか。

次のようなことは、出来そうです。
揺らぎの幅と方向をよく観て、その背後にある法則性に習い、上手な乗り方を学んでいく。
もし、自然なリズムを自らの手で邪魔しているなら、それを止めてみる。
それでも波が大きくうねる時は、おとなしく遣り過ごす。

おそらく、どんな先端医療もせいぜい、これらの振る舞いを手伝うだけ。
それを超える技術は、未だ現れていないようです。

■揺らぎを観せてくれるのは…

年齢や身体能力を問わず、誰もが今この時、自らの体の揺らぎを体験しています。
生きているかぎり、それは間違いありません。

ただし、揺らぎをちゃんと経験し、よく観ているかと問われたら。
そして、その背後にある法則性に上手く乗れているかと聞かれたら。
何だか心許ないような気がします(はい、私もその一人です)。

そこで、ある文化の人々は、体の揺らぎを観る手立てを講じてきました。
その一つが、”膜(fascia)”に尋ねることです。

“膜”によって、体の内外が隔てられ、体内に幾つもの空間が生まれます。
その空間が広がったり、まとまったりする様子から、揺らぎの幅を観てとれます。
また、“膜”は収縮しやすい方向をもつので、その様子から、揺らぎの方向性も観てとれます。

このように”膜”に尋ねると、体の揺らぎの幅と方向性が観えてきます。
だとすれば、その背後にある法則性も、少しずつ汲み取れそうな気がしませんか。

さて、今回はここまで。
お読みくださり、ありがとうございました。

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