「ヒモトレ」というのは、小関勲先生(バランストレーナー、韓氏意拳教練)が提案されている方法、ないし価値観です。
やり方は単純で、「ヒモに体の一部をあずけて動く」、「ヒモを体にゆるく巻く(添わせる)」のどちらかです。
それだけでも、体の状態や、動きの質が変わります。
動く時の環境、動く時の前提条件が変わるので、それは当然、変わります(ヒモでの刺激が必要十分かはさておき、何らかの刺激があれば生体は反応しますものね)。
その時の、その人にとって、好ましい変化が起こることも多いですし、「ヒモ一本でこれだけ変わるんだから、私の体って面白い」という糸口にもなります。
小関先生はヒモトレの説明をする時、「体の色合いを観る」、「体の経験を通じて、自分との距離感を知る」といった表現を使われます。
僕自身、小関先生から「自分の体の面白さ、色合いや距離感を観る面白さ」という糸口をもらい、自他の観方や稽古に反映させてきました。
頭や意識が先行し、体(という、本来コントロールの及ばない自然)をもコントロールの対象と捉えがち(そして結果、余計な苦しみも抱えがち)な昨今、体を通じた経験や、体を観察するという立ち位置は、とても貴重です。
そのような文脈で、ヒモトレはとてもおすすめです。
ただし、何らかの療法に類する文脈でヒモトレを捉えるなら、それなりの注意が必要だと僕は思います。
ヒモトレはその時、その場で好ましい変化を経験できることが多く、一見「産みの苦しみ」が少ないので、(その呆気なさが良い方にも転じるし)悪い方にも転じる可能性があります。
悪い方に転じるというのは、たとえば「症状などの不都合から学べたはずの自分の傾向に、気付かないまま経過してしまう」ことです。
このことを、つじ鍼灸院の辻敦志先生が再三、提言してくださっています。
たとえば「手を挙げにくい」という不都合があったとして、ヒモを背中に(タスキ状に)添わせると、手を挙げやすくなる場合があります(よくあります)。
その経験から、「手を挙げる時に背中が参加していなかったんだな」という学びがあれば、ヒモトレの面白さが広がっていくと思います。
しかし、「手を挙げやすくするには、タスキがよい」と解釈してしまうと、自分の傾向に気づかないまま、目的を失った方法だけが残り続けてしまいます。
これでは、もったいないです。
「やってりゃ良いことあるだろう」なんて、ご利益を期待しても、体は応えてくれない。それどころか、よりバランスを崩すこともあります。
また、何らかの療法に類する文脈でヒモトレを捉えるなら、気を付けるべきことが、もう一点。
それは、「はたしてその刺激が、必要十分で、目的に適っているか」について、(提供する側が)自省することです。
これはヒモトレ特有のことではなく、インソールやテーピング、マウスピースなど、(本当は徒手や運動も)何らかの刺激を療法として扱う場合には、常に必要だと思います。
「じゃあ、あなたはどう扱っているのか」と問われれば。
僕自身は、療法に類する文脈でヒモトレを捉える時には、
・方針の説明にあたって、症状部位と他部位との関係性を知っていただくために使う(これは徒手検査の精度が上がれば、検査だけでできるはず)
・担当患者さんのご家族にヒモトレを伝え、介助方法として役立ててもらう(これができるのは本当にありがたい)
・次回の施術までの間、より好ましい状態が保てるように、セルフコンディショニングとしてお伝えする(その場合、使い方や観察のポイントも含めて伝えます)
このような扱い方です。(施術の手段としては一切使っていません)
どうでしょうか。
正直、ちょっと「面倒くさい」話ですよね。
けれどどんな方法にせよ、療法を謳うのなら、「より好ましい変化を及ぼし、より納得のいく生(死)をお手伝いする」という約束を交わしているのですから、提供する側は常に自省が求められて、当然だと思います。
さらに申し上げるなら、自省している「つもり」ではなく、自省するための、明確な規範(たとえば精確な徒手検査)が必要です。
とはいえ、はじめに述べたとおり、僕が小関先生から受け取ったヒモトレの面白さは、「体を通じた経験」や「体を観察するという立ち位置」にあるので、必ずしも、療法に類する文脈でヒモトレを捉えているわけではありません。
むしろ、僕が講習会などでお伝えする場合は(理学療法士向けなど特別な場合を除いて)、そちらの文脈を強調しているつもりです。
たとえば、たすき掛けを「良い」と感じ、身支度としていた時代の人たちは、どんな体の経験・感性だったのか。
そんなことに興味を持ち、今の価値観が全てではないと知れたら、体と一緒に過ごす時間が、より豊かになると思っています。
こんなふうに、僕がヒモトレをお伝えする時には、伝える側・受け取る側がお互いに、どのような文脈で捉えているのかを大切にしておきたいです。
誰に求められたわけでもないし、これで上手くいくのかも分からないけれど、「よきもの」のよさを損なわないように、と思います。